ページの先頭です

ページ内を移動するためのリンク
本文へ (c)

<私>の日本語教育 No.006「日本語教員が日本語教育から学んだこと」山田 泉(元法政大学教授)

氏名

山田 泉(元 法政大学教授)

キーワード

#多文化共生   #戦略的同化  #生活者としての外国人   #多文化教育

研究・実践の概要

[日本語教育に関わり出したころ]
 大学卒業後4年間高校の国語教員をした後、1979年、日本語教育の勉強をしながら2か所で外国からの「生活者」の日本語学習支援ボランティアをしたことが、「日本語教育」活動への最初の関わりでした。その後、1982年から2年間、中国の語学大学で日本語を教えるとともに1歳の息子を含め親子3人で「外国人家族」として生活したことが、その後の教育・研究にとって貴重な財産となりました。

[生活者としての外国人(等)に対する日本語教育]
 1984年に帰国後、中国帰国者家族(単身者を含む)の定着促進センターで生活のための日本語教育を担当し、「文化」の相違をいかに克服すべきか、また「子ども」の教育をどうすべきかに心を砕きました。それは、その後の文化庁国語課で日本語教育専門職としての行政業務でも引き続き課題でした。そして、日本語学習者に第二言語としての日本語や日本文化をいかに習得させるかを考えるだけでは不十分で受け入れ(ホスト)社会側にいかに受け入れ能力を養成していくかが重要だと思うようになりました。いわゆる「やさしい日本語」の試みなどはその一例でしょう。そこで移住外国人等とホスト側住民が関わり合い、共に学ぶための場が必要と考え、「ボランティア日本語教室」を作ることを提案しました。これはわたしの二代後の専門職のときに事業化予算が採れました。

[大学教員としての活動: 日本語教育と多文化教育の双方を専門として]
 その後1988年4月からは2018年まで、三つの大学で日本語教員養成と留学生への日本語教育、生き方形成(キャリア)教育などを担当しました。またいずれの大学でも一般学生と留学生が学び合う仕掛け作りをしました。ここでも、もちろんわたしが目指す日本語教育の目的は、外国人等の日本語・日本文化習得と併せて受け入れ(ホスト)社会側の受け入れ能力を養成することにありました。そしてわたしの大学での専門は「日本語教育」と、後者の目的に照らして、「多文化教育」との二つとしました。

[外国人等移住者(移民)の受け入れ活動: 日本を多文化共生社会とするために]
 大学所属中から現在まで、わたしの研究対象は、上で言及した教育分野と併せて、日本がいかに外国人等移住者(移民)を受け入れ、多文化共生社会とすべきかが加わりました。それは、長く文化庁の地域日本語教育(外国人生活者に対する日本語教育)に関わってきたことや大阪大学所属時代に外国につながる子どもの居場所づくりのボランティアをしてきたことと関係しています。そして、これまで日本語教育が蓄積してきた教育・研究資源を活用し、活動を続けていきたいと思います。

研究/実践の特徴・成果

[日本語教育・地域社会での日本語学習支援活動に関わって得たもの]
 日本語教育に関わってきてわたしが最もよかったと思うことは、帰属社会によって作られた自らの文化(世界の見方)から解放され、自らが世界の見方を作り直す大切さを理解したことだと思います。日本の教育(家庭教育、学校教育、社会教育)は、保護者や先生、学校、教育委員会、教育行政など「権威者」から教えられたことをしっかりと覚えることが中心になっています。言ってみれば、権威者が持っている正解を覚え、覚えたかどうかの判断も権威者が行うテストなどで計られるものです。
 わたしは、多くの日本語学習者個人や日本以外の社会・文化から、違った「世界の見方」があることを学べたことに感謝しています。
 わたしの名前の「泉(いずみ)」ですが、留学生の日本語クラスの初日に自己紹介をして、「名前の「泉(いずみ)」は、日本では女性の場合が多いです。でも少しだけ男性もいます」と言うと、中国人留学生の一人が「日本人の名前で、最後が「み」の人は女性が多いです。男性も少しいます。ひろみ、よしみ、かずみ、のぞみ、…」と教えてくれました。日本語教師のわたしが一本取られました。
 それぞれの文化は、食事の時に茶碗を持つか持たないか、家族の中で親と子のどちらがより大事にされるかなど、姿や行動に現れたものから喜怒哀楽の感じ方、物事の判断基準、思考法などに及ぶまで、深く浸透し、当該社会の「あたりまえ」になっています。
 日本語教育の現場では、この「あたりまえ」があたりまえでなくなるところが大切な学びの資源だと思います。学習者も教員も自らのあたりまえが揺さぶられ葛藤が生じます。ここからが誰かに教えられ覚えるのではない、葛藤の中から自らが新たな文化を作っていく過程である「学び」なのだと思います。
 わたしは、自分自身が自らの文化から自らを解放することの大切さを学んだように、日本語教育・学習の中心にこの「学び」を据えていきたいと思います。
 文化は社会と切り離せませんが、日本語教育では「社会」のあり方、異なる社会どうしの関係を学ぶことも大切なことと考えます。次のわたしの体験のエピソードを見てください。

[日本語教育に関わって知った日中間の戦前戦中の歴史]
 中国人客員研究員の先生がたの寮の「教室」が始まって数回目、その日が7月7日だったので、七夕の話題を中心に日本語の願望を表す「〜たい」の文を短冊に書いて、なぜそうしたいのかをほかの人に説明する活動をしようと思って、笹竹などを持って行きました。20数名の先生がたに、「では、勉強を始めましょう」と言うと、みなさんが起立して、「お願いします」と頭を下げました。わたしも「お願いします」と頭を下げました。そして、「今日は、何月何日ですか」と聞くと、一斉に「七月七日です」の声が上りました。わたしは、部屋の前面の小さな黒板に、「7月7日」と書きました。そして「今日は、何の日ですか」と聞きました。と、前を向いて顔を輝かせていた先生がたが、一斉に顔を伏せて黙ってしまいました。その沈黙は何とも重苦しいものでした。わたしは、毎回、一番前に座っていて日本語の上手な先生に、「わたしは、何か悪いことを言いましたか」と言って、「今日は、…」と言うと、先生は困ったような顔をしながらも小さい声でしかしはっきりと、「今日は、日本と中国が戦争を始めた日です」と答えました。その場の先生がたからもフッとため息が漏れました。1937年7月7日、当時日本では「盧溝橋事件」などと言っていましたが、中国の「七七事変」の紀念日だということは、わたしも思い出しました。その後は、経験豊富な先生がたが、「重大なミス」に落ち込んでいるわたしを気遣ってくれ、日中共通の年中行事である七夕の話題で準備してきた活動ができました。
 わたしは、これを日本語教育には国家間の歴史的な関係が横たわっていることを知る大切な洗礼として、今日まで心に刻んでいます。それは、ボランティアで関わっていたもう一つの「中国残留孤児」の場合にも通ずるものでした。日本語教育を行うには、このような過去の出来事、「歴史」を学ぶことも重要だと思いました。
 その3年後、旧満州の地である中国東北部、大連市の外国語学院に赴任し、連れ合い、当時1歳の長男と「外国人家族」になりましたが、さらに多くの濃厚な「歴史」にまつわる体験をしました。それとともに中国の人々の人としての度量の深さやわたしたち外国人に対して同じ人として接してくれる温かさを感じました。

[多文化共生と日本語教育、そして共に社会的問題を克服するために]
 多文化共生と同化は逆の概念のように思われることが多いのではないでしょうか。しかし、日本で、外国人等移住者が社会参加するためには、一般的には第二言語としての日本語や日本文化を学んでその能力を手段としなければならないのではないでしょうか。これは、明らかに「同化」で、同化でない日本語教育などないと思われます。そして、社会参加ができてこそ多文化共生社会創造の一方の当事者となる可能性が生まれると思います。わたしは、「戦略的同化」と言っていますが、日本語教育を担当する者として、それぞれの学習者のアイデンティティや文化を尊重し大切にしながら、賢明な「戦略的同化」につながるように、サポートしたいと思います。
 現在、日本は外国人等移住者と共に生きる社会をどう作るかを、当事者とマジョリティ側とが共に考え、行動すべきエポックを迎えています。そのためには、悪名高い技能実習制度を廃止し、移住労働者受け入れの新たな枠組みに移行すべき議論がされています。
 わたしは、これら「共生社会」を目指す上での日本社会あり方やさらに広く世界のあり方の問題も日本語教育として教育・学習の内容にすべきだと提案しています。また、ホスト社会(マジョリティ)側に対しても、多文化教育の活動が重要だと考えています。そのための仕掛けとしてボランティアによる地域日本語活動だけでなく、中高生や大学生など若い人向けに、神奈川県の学校の先生がたと多文化教育まんが(文献参照)を制作したりしています。

[文献]
「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会 編、みなみななみ まんが 『クラスメイトは外国人』
副題:「多文化共生20の物語」(2009年)、「入門編 はじめて学ぶ多文化共生」(2013)、「課題編 わたしたちが向き合う多文化共生の現実」(2020年)明石書店

受賞歴

  • 2009年度 日本語教育学会 学会賞
  • 2020年度 文化庁長官表彰

#<私>の日本語教育